2014年6月22日日曜日

さよなら、バークレー

ついに夫が卒業し、日本へ帰国することとなった。帰国日の6日前に夫が修士論文を提出し、船便の梱包と掃除を急いで進め、帰国日の1日前に卒業式、翌日にはバークレーを発つと言うタイトスケジュールで、最後までドタバタしながら飛行機に乗って、そういえば日本へのお土産を何一つ買っていなかったことに気づいてがっかりしたのが実は1ヶ月前。

2年前、正確に言うなら1年9ヶ月前に成田を発ったときは、初めての海外生活に戦々恐々としていた。バークレーに到着したばかりの頃はカフェで店員さんにトイレの鍵を借りるのにもドキドキしながらだったし(やっとの思いで借りたら鍵には「Men」と書いてあったけど)、アイスクリーム屋さんで全財産が入った財布を置き忘れたりしたし(親切な方がすぐに届けてくれたけど)、その他にも波乱はいろいろあったけど、今思い返してみると、とても楽しくて幸せな日々だったように思う。

いろんな人種の人がいて、いろんな国の言語やいろんな国のアクセントの英語が飛び交って、そんななかで親切にしたりされたり、友達になったりできるという環境がとても好きだった。日本しか知らなかったときよりも、日本のことがよくわかるようになったし、他の国の人たちに対する理解も深まったと思う。本当に貴重な経験ができた。

なかば諦めていた子どもを授かり、子育てを始めたことも大きく自分を変えるきっかけになった。以前よりもさらに、よりナチュラルなものを求めるようになったし、よりリベラルに生きたいと思うようになった。何よりも、人生に対して前向きになった。真面目さとか我慢強さだけが自分のとりえだったけれど、今は自分も周囲も明るく楽しくなる方へと路線変更して、朗らかに生きていきたいと思っている。

バークレーでの生活を終えるにあたり、このブログの更新も今回で最後。思っていたより多くの方に読んでいただき、嬉しいフィードバックをいただいたりして、少しは役に立てたのかなと思うと達成感があります。これからは、家庭を守りながらも、また何か別の形で自分にできることを見つけていきたいと思っています。これまでお付き合いくださった読者さん、ありがとうございました。

さよなら、バークレー!さよなら、みなさん!どうかお元気で。

                                                   
                                                     (おわり)


2014年6月21日土曜日

帰国準備

帰国までにやったこと一覧です。

<家具のもらい手を探す>
帰国する人にとって、これが一番の悩みどころ。自分でMoving Saleを開催したり、知人のツテをたどってバークレーに引っ越してくる人を見つけたり、と時間も労力もかかる大仕事。私たちの場合は幸いなことに、今度バークレーに越してくるという方とお知り合いになる機会を得たため、その方に家具一式を安値で買っていただく(押し付けるとも言う)ことができた。そのほかには、ソファー2つを夫のクラスメイトに結婚祝いとして贈呈したり、こまかいものはyard sale(下記参照)にて破格で売り払ったりした。

<クロネコヤマトの申し込み>
クロネコヤマトのホームページでは、なるべく帰国日の2ヶ月くらい前までに申し込んで欲しいと書いてあったので、急いで申し込んだ。申し込みフォームの備考欄に「梱包は自分たちでやる」旨を書いたところ、単身パックを勧められた。荷物の量を見積もって、ダンボール大12箱小8箱を頼んだ。実際に使用したダンボールの数に応じて費用が発生すると聞いたので、多めに調達。

<日本での住まいを見つける>
夫の仕事の都合により、日本に到着した2日後から通常通りの勤務が始まるため、できるだけ早く新しい住まいを確保しなければならなかった。東京に戻ることがわかっていたので、以前お世話になった不動産屋さんに電話やメールで連絡をとり、こちらの希望条件を伝えて物件を見立ててもらった。内見はせずに間取り図だけで契約を交わした。

<village officeに退去の申し出>
退去する日の30日前までにofficeに書類を提出しないといけないので、それよりも前に退去に関する書類をもらいに行く必要がある。提出するときにはinitial inspectionについて意思表示をしておかないといけない。退去日の約2週間前にinitial inspectionというものを受けることができるので、権利放棄する(受けない)か、立会い付きで受けるか、立会いなしで受けるかを選択する。私は立ち会いつきで受けることにしたら、その場で日時を決めてくれた。

<航空券の購入>
 fareboomというサイトで、JALのサンフランシスコ~羽田が激安になっていた!大人2名&幼児1名(lap child・座席なし)で約2000ドル。

<不要品の処分>
私が所属している環境保護団体・nature villageがUC villageにて主催するyard saleに参加して、手放したい物を安価で売りさばいた。売るほどでもないけど捨てるのは忍びないと思うものはdonation boxに寄付。使用済みのインクカートリッジと乾電池はvillage officeのドア付近にあるe-waste boxに入れてきた。





それから、読まなくなった日本語の本を何冊かBerkeley Public Libraryに寄贈した。事前の連絡も何もせずに、いきなり受付に本を持ち込んで「donationしたい」と言ったら、それで手続きは終了。こちらの身元や寄贈内容の確認などは一切なし、という気楽さ。これからバークレーに来る日本人のみなさん、「ローマ帝国滅亡史」は夫からの寄贈品です。ところで、妻としては2年前の夫に聞きたい。こんな重たい本を(しかもバークレーで読まなかったし)なんでわざわざ日本から持ってきたの?

<部屋の掃除>
initial inspectionでけっこうダメだしをされてしまったので焦った。前の住人がブラインドの紐を結んでいたのをそのままにしていたら、「ほどかなくてはダメ!」とチェックリストに×を付けられた。何てこまかいんだ!ちなみに、窓ガラスと壁の汚れ(子どもの落書きなどを含む)はそのままでいいらしい。引越し直前までこのことに気がつかなくて焦りに焦った…。リストはよく確認しよう。

<空港までのアシを確保>
チャイルドカーシートを用意してもらえるという、ABC Shuttle Serviceを予約。しかし結局、ご近所の方のご厚意に甘え、空港まで送っていただくことになり、こちらはキャンセルしてしまった。

<クロネコヤマトの荷造り>
 思っていたよりも荷物が少なかったので、ダンボール大8箱小4箱に収まり、値段は980ドルだった。クロネコヤマトに引渡しできるのが平日のみ。私たちは日曜日に帰国したので、2日前の金曜日に引き取ってもらった。

<郵便局で住所変更>
USPS(The United States Postal Service)のホームページから住所変更をしようとしたら、転居先の住所にはアメリカ国内の住所しか入力することができなかった。そこで、最寄りの郵便局であるSolano Post Officeに行って、窓口でMover's guideと書いてある封筒をもらい、中にあった用紙に手書きで記入した。この用紙(大きめのはがきのような感じ)も転居先がアメリカ国内向けに作られているけれど、転居先の欄に州の略文字2文字分の枠に無理やりJAPANと書き、zip code欄の5文字分の枠に日本の郵便番号7桁を記入。郵便事故に遭ったら嫌なので、窓口のスタッフに手渡してきた。帰国してから2週間後には郵便物が転送されてきた。

<Telebearsで住所変更>
officeから渡された退去の書類に、Telebears(UCバークレーのWeb学生登録)でも住所変更しておくように、とあったので日本の新しい住所を登録。

<銀行口座について>
私たちは、夫の希望でCitibank N.A.の口座を残しておくことにした。学生ではなくなるので今後は口座維持手数料が発生するのでは…と心配していたところ、社会人向けのコースのうち一番ランクが低いものを選んだとしても、口座に1500ドル以上の残高があれば手数料は発生しないことを窓口で教えてもらったので、そちらのコースを選んだ。コースは全部で3ランクあり、預金額に応じて受けられるサービスの内容が異なるらしい。銀行員さんがパンフレットをチラッとしか見せてくれなかったので詳細はわからなかった。

~子どもに関してやったこと~

<洋服&おもちゃの買いだめ>
日本での育児経験がある方が口をそろえて言うのが、「日本は子どもの洋服やおもちゃの値段が高い!」ということ。帰国前にSolanoにある中古屋さん・Chloe's Closetにて洋服とおもちゃをまとめ買い。このお店は洋服(0歳から2歳まで)やおもちゃ、三輪車や電動スイングなどを中古で販売しているほか、離乳食用のエプロンやコップなど新品のものも扱っている。

<予防接種の記録を発行してもらう>
お世話になっていたKiwi Pediatricsに帰国することを伝え、予防接種の記録(immunization record )を書いてもらった。息子は1歳になる直前に帰国することになるので、1歳検診と予防接種を受けさせてもらえないかと頼んでみたものの、検診はできるけれど予防接種については早すぎるのでできない、と言われた。検診だけ受けに行ったら、ドクターが日本で小児科にかかるときのために、これまでの検診のsummaryを書いてあげると言ってくれて記録をもらえた。

<おまけ・日本での転入手続きについて>
区役所に転入届を出しにいくときに、印鑑とパスポートだけ持っていったらダメだった!戸籍謄本と戸籍の附票が必要だと言われ、本籍地のある区役所まで急いで取りにいき、再び区役所に戻った。日本に入国した日付の確認が必要なので、息子のパスポートは日本のものだけで足りた。

転入届の提出だけでなく、私はその日のうちに住民票の写しも発行してもらいたかったので、そのことを申し出ると「1時間以上かかるので、そのあいだにお子さんに関する手続きをしていてください」と言われた。

まずは健康推進課に案内されて母子健康手帳の交付を受けた。それから次に子育て支援課に赴いて児童手当について説明を受けることに。うちの場合は夫の勤務先から支給されるので、区に対して行う手続きはなかった。続いて子ども医療証の発行をしてもらう。息子の医療費については、夫の勤務先から発行された保険証で8割、区から2割、負担してもらえるらしい(手続きから2日後には区役所発行の子ども医療証が郵送で送られてきた)。さらに予防対策課に通され、予防接種の予診票の発行を受けることに。

…しかし、転入届を出すだけのつもりで来ていて、まさか子どもに関してこんなに手続きをする展開になるとは思っていなかった私はimmunizaition recordを持参しておらず、後日出直して予診票をもらうことになった。

そんなわけで、私から最後のアドバイス。海外で出産された方が日本で転入届を提出するときは、お子さんに関する書類は念のために一式持っていった方がいいです。

2014年6月7日土曜日

アメリカで救急車を呼ぶ

ときは1月の終わり、息子が生後8ヶ月になって間もないある日のことだった。いつものように寝かしつけた息子が、どうも寝苦しそうにしている。しきりにモゾモゾするので、落ち着かせようと思っておでこに手を当ててみると、驚くほど熱い。まさかと思いつつ体温を測ってみたところ、102.5F。私は摂氏と華氏の換算ができないので、インターネットで調べると何と40.2C!3時間前までは何ともなかったのに、いきなりこんな高熱が出るなんて!

「定本 育児の百科」を読んでみるに、たぶんこれは突発性発疹なんだろう。突発性発疹は生後6ヶ月から2歳くらいまでのあいだにほとんどの子どもが経験する通過儀礼のようなもので、ある日突然高い熱が出て、熱が引いたあとに発疹が身体じゅうにできるという。病院に行ったところで何かできるわけではないので、全快するまでの1週間程度は自宅で看護するしかないらしい。

それならこのまま様子を見るしかないのか、と思う一方で、私には引っかかることがあった。産後Alta Batesを退院するときに、NICUのスタッフから「赤ちゃんの体温は98F~99Fが標準なので、もし97Fを下回ったり100Fを上回ったりしたときは、すぐに病院に連れて行くように」と言われていたのだった。突発性発疹だろうから自宅安静でいいのか、それとも102.5Fもの熱が出ているから病院に行った方がいいのか、判断に迷う。そんなときに、息子が嘔吐したので慌てる。突発性発疹って嘔吐を伴うものなの?もしかして何か別の病気にかかっているのかな?でも病院と言ったって、午後9時を過ぎていたのでKiwi Pediatricsは閉まっているし、いったいどこに行けばいいの?そんなこんなで慌てているうちに、息子が再び嘔吐。苦しいのか、ずっと泣き続けている。なかばパニックになりながら、仕方がないと覚悟を決めて911に電話した。

アメリカでは警察と救急が同じ電話番号なので、911に電話したときはどちらを呼びたいのかはっきりさせないといけない。「私のベイビーが102.5Fの熱を出して、この1時間以内に2回嘔吐して…」と伝え、住所を教えたところで最後にオペレーターの女性が「あなたはバークレー市に住んでいるのよね?」と尋ねてきたので、「いえ、アルバニー市です(UC villageがあるのはアルバニー市)」と答えると電話が突然どこかに転送された。

次に応対してくれた女性に最初から説明し直したところ、息子の状態についていくつか質問を受けたのだけど、「Is he breathing?(呼吸はしていますか?)」という質問でなぜか頭の中が真っ白になってしまい、「意味がわかりません。ブリージングって何ですか?」とパニックになってしまった。そして電話がまたどこかに転送された。一から説明し直して住所を伝えて、また転送されて、というのを繰り返し、結局7~8回は転送されて、どこの誰と話しているのだかわからないままに、「Is someone coming?」「Yes」というやりとりで電話が終了。電話を切って2分と経たないうちに救急隊員が自宅に到着。

救急隊員は白人男性とアジア人男性の2人だった。「薬は何か飲ませたの?アスピリンを飲ませればいいんだよ」と言われたけれど、素人判断で赤ちゃんに薬なんて飲ませて大丈夫なんだろうか?救急車に乗り、病院に搬送される。救急車に乗って最初にしたことは、息子の保険の確認だった。私はMedi-Calの会員証を提示した。車に乗るからと思ってカーシートを持ってきたのに、息子を座らせようとすると大泣きしてしまったので、担架を起こして私が座り、私の身体を固定したところに息子を抱っこする、という方法で息子を運んだ。

向かったのはChildren's Hospital At Oakland。あとでわかったけれど、自宅から18番のバス1本で来られる場所だった。夜間も患者を受け付けているようで、待合室にはたくさんの赤ちゃんや子どもがいた。ここで息子の名前が呼ばれるのを待つ。

…しかし、30分以上待っても全然呼ばれる気配がない。息子は病院に着いてからずっと泣き続けている。とりあえずオムツを替えようと思い、トイレのオムツ交換台に息子を仰向けに寝かせた瞬間、噴水のようにゴボゴボと大量に嘔吐。泣きたい気持ちで息子を抱え、受付の女性に診察を急いでもらえないかと頼んでみると、Triage Windowに行くようにと言われる。待合室の一角にあるガラス張りの部屋がTriage Windowという部屋で、診察の前に応急処置が必要な患者はこちらに呼ばれるようだった。Triage Windowにいたスタッフに、息子の名前がwaiting listにあることを確認してもらい、ほどなくして呼ばれた。

飲み薬になっているイブプロフェンを口の中に入れた途端に、またしても大量に嘔吐!もう、息子の身体はいったいどうなってしまったんだろう?替えの洋服を持ってきていなかったので入院着をもらって着せ替え、座薬を入れたところで個室に通され、ドクターの診察を待つことに。

個室で待つこと30分以上。看護師さんがやってきて、先ほど息子が嘔吐してしまった飲み薬を再び投与。今度は吐かずに飲むことができた。そこから待つこと1時間、体温の計測があり、すっかり熱が下がっていることが確認できた。息子もすうすうと寝息を立てるようになり、顔には早くも発疹が現れ始めていた。この日は患者の数が多かったそうで、ドクターの診察を受けられたのは翌朝の7時過ぎだったけれど、そのころには息子は元気になっていた。

ところで、救急車を呼んだとなると、気になるのが費用のこと。3ヵ月後の4月末に請求書が届いた。それを見てみると…なんと2264ドル(約23万円)!内訳は夜間呼び出しの1895ドルと、移動距離に応じた金額が369ドル(1マイルあたり45ドルらしい)。Medi-Calが支払いを拒否したので、あなたは100パーセント自己負担することになっている、と書かれていた。救急車を呼んだ時点で覚悟はしていたので致し方ない。金額については予想以上に高い!と思う一方で、Medi-Calのおかげでこれまで息子の医療に関しては1ドル足りとも支払わずにきていたので、このくらい払っても全然足りないくらいだという思いがあった。Medi-Calに加入できたおかげで、超音波検査を含む妊婦検診と分娩費用と6日間の入院費、息子の黄疸治療、産後の母体の検診(Medala社の電動搾乳機のプレゼント付き)と息子の健康診断や予防接種まで、すべて無料で受けてきたから。

しかし請求書には肝心の支払い方法が書かれていなかったので、とりあえず最寄りのアルバニー市役所の分署まで行って質問してみることにした。Fire Departmentに案内されたので、窓口に出てくれた消防士さんに請求書を見せてみると「保険会社が全額拒否するなんておかしい。普通は一部でも負担してくれるものなのに。僕が問い合わせてみるよ」という親切なお返事をいただいた。「私たちの帰国が迫っているので、手続きしていたらきっと間に合わないと思う。全額支払ってもかまわないんだけど」と言っても、「いや、これは保険担当部門にかけあった方がいいよ」と消防士さん。

結論から言うと、息子のMedi-Calは無効になっていたので、救急車代を拒否されてしまったらしい。実は息子がMedi-Calに承認されてから5ヵ月後に、Medi-Calからパンフレットが送られてきて、子どもの保険をAnthem Blue CrossかAlameda Allianceのどちらか選ぶようにという通知がきたので、Kiwi Pediatricsに確認してAlameda Allianceに加入していたのだった。だから、救急車に乗ったときにMedi-CalではなくてAlameda Allianceの会員証を提示すればよかったのだ。私はこのときまで、Medi-Calがすでに無効になっている(担当がAlameda Allianceに移ったというべきか)ということを知らなかったのでびっくり!

それで、救急車代はAlameda Allianceが何と全額負担してくださいましたとさ。カリフォルニア州、すごすぎる!このご恩は一生忘れません!

2014年5月31日土曜日

夜泣きとの格闘記録

息子の夜泣きは、それはそれは激しいものだった。いまだに夜中に1~3回は起きてしまうけれど、それでも状況はかなり良くなってきていると思う。これは半年以上にわたって夜泣きと格闘してきた記録です。もし夜泣きで苦しんでいる方がいたら、どんなに難易度の高い赤ちゃんでも諦めずに手を打てば多少は改善できるのだという希望を持ってもらえたら嬉しいです。

<生後5ヶ月~7ヶ月半 夜泣きで最も苦しむ日々>

午後7時ころに寝かしつけても息子は20~30分後には目を覚まし、それと同時に「ギャー!!」と泣き叫び、涙を流して手足をバタつかせ、背中を反らしながら30分くらい泣き続ける。この間、ミルクを飲ませてもダメ、抱っこでゆらゆら揺らしてもダメ、おひなまきをしようにも暴れるのでできず、外に連れて行ってもダメ、youtubeで赤ちゃんが泣き止むという音楽をいろいろ聞かせてもダメ、一般的に赤ちゃんが泣き止むと言われている音(ビニール袋をガサガサしたときの音や水が流れる音、ドライヤーの音、耳元で「シーっ」と言ってみる)を聞かせてもダメだった。ほとぼりが冷めるまで根気強く抱っこし続ける他なかった。落ち着きを取り戻したところから、再び抱っこで揺らして30分~2時間くらいかけて寝かしつける。

この「ギャー!!」というパニック泣き(うちではこう呼んでいた)が一晩のうちに4~5回繰り返され、おまけに午前4時か5時くらいになると息子は覚醒してしまってもう寝ないので、絶望的な気持ちで息子の遊び相手を始め、また新しい一日が始まる、という生活だった。お昼寝については、1時間近く抱っこをして寝かしつけると、たったの15分で「ギャー!!」と目を覚ましてしまうという有様だった。Sleep Trainingの記事に書いたことはこの期間に試していた。そして困ったことに、このパニック泣きは夜間だけでなく、日中にも1~2回起きていた。

抱っこのしすぎで腕の関節から不吉な音がするとか寝不足で幻覚に悩まされるとか、肉体的に辛いということはもちろんだけど、それよりも辛かったのは、何をしても息子が泣き止んでくれないということだった。「いったいどうしてこんなに泣くの?」「私の何がいけないの?」「私を母親として認めてくれていないのでは…」と思考回路がネガティブな方へと突き進み、毎日テーブルやら布団やら絨毯に突っ伏して泣いていた。寝かしつけをしていてもあまりの辛さに涙が止まらず、「お願いだから寝てよ、ママはもう疲れて死んじゃいそうだよ」と繰り返していた。今だから書けるけれど、当時は死にたいと思うことすらあった。

そんな状況下でもどうにかこうにか自分を保つことができたのは、「親を苦しませようと思って泣く子はいない」と信じていたから。うつ状態にならないために、毎日必ず外に出て誰かと話をするようにして、自分の心をポジティブな方へと持っていく努力をした。クタクタに疲れていたので辛かったけれど、子連れで出歩いていると、すれ違う人や店員さん、バスの運転手や乗り合わせたお客さんなど、あらゆる人たちが声をかけて祝福してくれるので、心の底から救われた。アメリカで子育てできて一番よかったなと思うのはこの点だった。

<生後7ヶ月半~9ヶ月 添い寝で心の不安を取り除く>

息子が生まれてからずっと、育児の参考にしている本「定本 育児の百科 松田道雄 著」によれば、生後7ヶ月ころの赤ちゃんが夜泣きをする理由は主に不安から来ているのだという。「7ヶ月になった赤ちゃんが夜に泣くのは、目がさめたとき、暗いのが不安になって、最大の保護者である母の愛撫をもとめているのだ。母親に抱かれることで安心して、まもなくねつくというのなら抱いてやるべきだ。抱くだけでなく乳もでるのなら、のませてやるべきだ。とにかく夜中におきた赤ちゃんは、早くねむらせることだ。ミルクでも母乳でも、すぐに与えて、満足させてねむらせるのがいい。深夜の授乳は、成長がすすんだり、あたたかくなったりして、赤ちゃんがもっと安眠できるようになったら、自然にやんでしまうものである」と書かれている。

夜泣きの原因が不安だと聞いても、当初私はそんなはずはないと思っていた。毎日長い時間息子を抱っこしているし、語りかけもしているのだから、愛情は充分に伝わっているはずだと思い込んでいた。けれど夜泣きが一向に治まらないので、もしかして息子はまだまだ安心できていないのかもしれない、と思うようになり、再び添い寝を始めることにした。

添い寝については賛否両論あるけれど、松田博士が「めいめいの家庭が平和にいくようにという立場からかんがえるべきである」と書いていたので、うちでは添い寝をすることにした。

息子が眠そうにしていたら、布団に寝かせて私の身体にぴったりくっつけて、おなかや背中を優しくトントンしながらミルクを飲ませる、そして息子が眠りについてからもずっと私はくっついたままでいる、という方法で添い寝をした。以前添い寝をしていたときは、息子が眠りについたら私はそばを離れてしまっていたけれど、今回はずっと一緒にいることにした。

最初はやはり20~30分ごとにモゾモゾしたり起きて泣いたりしていた。けれど1ヵ月半ものあいだ続けていたら、いつのまにかパニック泣きがなくなり、私にくっついていなくても寝られるようになり、電話や玄関のチャイムが鳴っても起きないほど眠りが深くなった。何よりも嬉しかったのは、息子がとてもよく笑うようになり、周囲から「Happy baby!」と言われるようになったので、やってよかったと思っている。

<生後9ヶ月~10ヶ月 ミルクでの寝かしつけをやめる>

そうはいっても、相変わらず夜中に何度も起きる生活が続き、さすがにもう体力的に限界を感じるようになった。私が参考にしているジーナ式の本「The Complete Sleep Guide for Contented Babies and Toddlers」によると、生後6ヶ月を過ぎた赤ちゃんが夜中に泣くのは、必ずしも空腹が理由ではないという。長いあいだにわたってミルクを飲んで寝かせるという癖を息子に植えつけてしまったけれど、離乳食が順調に進んでいることも考えて、夜間のミルクをやめてみようと決意。

ジーナがこの本の中で紹介している夜間のミルクの減らし方については、以下のとおり。赤ちゃんが眠りについてから最初に目を覚まして泣いたとき、いつも与えているミルクよりも20~30ミリリットル少ない量のミルクを飲ませ、それでも何か欲しそうにしている場合は水を飲ませて眠りに戻らせる。2回目以降は、いつもどおりに又は赤ちゃんがもっと欲しがるようならいつもより多くミルクを飲ませてよい。この影響でもし日中に飲むミルクの量が増えても気にしなくてよい。

次の日は、最初に目を覚ましたときには前日からさらに20~30ミリリットル少ない量のミルクを飲ませ、それでも足りないようなら水を飲ませて、赤ちゃんを眠りに戻らせる。2回目以降はいつもどおり又はいつも以上に多くミルクを飲ませてよい。

こんな風に、まずは最初に起きたときに飲むミルクの量を徐々に減らして、最終的には水だけで落ち着くようにする。それが達成できたら今度は2回目に目を覚ましたときに飲むミルクの量を20~30ミリリットルずつ減らしていって、最終的には水だけで眠りに戻れるようにする、というゆるやかな方法を実践した。このやり方は、ジーナも書いているように長期戦になるので、お母さんが体力的に可能なら、という条件がついている。ジーナが強調しているのは徐々に(gradually)減らしていくということ。赤ちゃんにとって、いつも飲んでいるミルクの量を減らされるというのはストレスフルなことだから、というのがその理由だった。

結局3週間かかったものの、あんなに寝なかった息子が連続して9~11時間寝るようになった!この頃に行った旅行でもすやすやと眠ってくれて、私は体力を少し回復することができて助かった。

<10ヶ月の終わり~11ヶ月 風邪をひいて元に戻る>

しかし幸せは長くは続かなかった。モントレー旅行でひいた風邪をこじらせて息子にうつしてしまった。体調を崩したことがきっかけで、息子が再び2時間ごとに泣くようになってしまい、夜間のミルクも再開するはめになってしまった!これまでの血のにじむような努力が水の泡に…。無念。


<11ヶ月~現在 動けるようになって睡眠時間が増える>

11ヶ月を過ぎて、息子が自分で動き回るようになって疲れるようになったせいか、一度に4~5時間まとめて寝てくれるようになった。寝かしつけも、布団に寝かせてトントンしていれば眠りにつくようになったので、私の身体の負担がだいぶ減った。まだミルクに頼ることもあるし、夜通し寝ることなんてないけれど、20分で目を覚ましていたころに比べたら飛躍的な進歩を遂げたと思う。



2014年5月10日土曜日

桜祭りde阿波踊り

4月20日、サンフランシスコで開催された桜祭りに行ってきた。見物客としてではなく、阿波踊りに参加するために。私たち一家は徳島とは縁もゆかりもないけれど、友達の友達が徳島出身という何とも細いご縁で桜連の皆さんに出会い、暖かく迎え入れていただいた。

桜連の方たちは、普段はサンフランシスコやエルセリートで阿波踊りの練習をしていて、今回の桜祭りに限らず様々なイベントで踊りを披露されている。メンバーは日本人だけではなく、3分の1くらいをアメリカ人が占めている。この会の代表を務めているKeijiさんは、エルセリートにある日系の雑貨屋さん「Gipang」(以前は「Ichiban-kan」という名前だった)で店長さんをしている。

桜祭り当日、夫は踊り手として、息子と私はベビーカー部隊(注:阿波踊りにはそんなものありません。要するにオマケ)としてパレードに参加させてもらうことに。よそ者の私たちにまでハッピを用意していただいて、ありがたい限り。

パレードの出発地点まで、衣装を着た皆さんと歩いていくだけで、注目の的。歩行者も車で追い越していく人たちも、カメラを向けてくる。私も2年前には、まさかサンフランシスコの街中をハッピを着て歩くことになるだなんて、夢にも思わなかった!

一面芝生になっている広場で、パレードの開始を待つ。桜連のほかにも、沖縄県人会の方たちや東京スカイツリー音頭を踊る方たちもいた。コスプレ軍団がいたり、柴犬愛好会(?)でもあるのか柴犬を連れた集団がいたり、綾波レイを燦然と描いたイタ車を発見したりして、ここは本当にアメリカなのか?という気がしてくる。

そうこうしているうちに、いよいよパレード開始!楽器演奏を担当する方が音色を奏で始め、踊り手の皆さんが踊りながら練り歩く。最後尾にはなぜかベビーカー。いくつもの坂を乗り越えながら1キロ近く進み、終点はジャパンタウン。この間、沿道には大勢の人がひしめきあい、割れんばかりの拍手と歓声と無数のカメラを向けられ、自分が歩いているのがまるでレッドカーペットであるかのような錯覚がしてくる。




フィナーレを飾ったのは樽神輿だった。神輿に乗っているふんどし姿の男性をみて、近くにいたヒスパニックの男の子が「お尻が見えてる!」と爆笑していた。お母さんが「あれはコスチュームなのよ!」と一生懸命たしなめていたけど、生まれて初めてふんどし姿をみた男の子にとってはよほどセンセーショナルな光景だったんだろうなと思う。

パレードが終わっても、踊り手の皆さんは多くの人から写真撮影を求められ、きっと疲れているに違いないのに、サービス精神を発揮して笑顔でリクエストに応じていた。

この日はお祭りだけあって、ジャパンタウンはとんでもない数の人でごった返していた。日本文化というと、コスプレやアニメがフォーカスされがちだけど、それでも日本文化に興味を持ってくれる外国人がこんなにもいるということは幸せなことだと思う。


2014年5月1日木曜日

GSPP Talent Show

先日、GSPPの1、2年生を対象にしたイベントであるTalent Showに出席してきた。これは一言でいうと学芸会で、学生の中から希望者がステージで一芸を披露し、みんなで鑑賞するという企画。夫は図らずとも2年連続で舞台に上がることになってしまった。

昨年はGSPPの日本人組で宇多田ヒカルの「Traveling」に合わせてダンスする羽目になり、夫は頭に猫耳を付けて舞台で踊ったのだった。日本人組といっても、日本語ペラペラのアメリカ人・アンドリュー(和名:安土竜)が日本人の学生4人プラス自分の名前で勝手に出場登録してしまい、「これは断われません(笑)」というメールを送りつけてきたのがきっかけだった。

夫はクラスメイトのあいだで「なんか面白い奴」として認識されているためか、今年もやはり巻き込まれてしまった。チーム・BrozambiqueとしてBoys II Menの「End of the road」を歌うことになったのだ。夫が練習のためにこの曲を100回近く自宅で聴き続けたのには参ってしまったけれど。

このイベントには家族を連れてくることができるので、今年は息子と私も出席。軽くつまむ程度の食事をしながら、ショーは進む。







素人の一芸披露だからと言って侮るべからず。歌にしろダンスにしろ、あまりのレベルの高さに呆然としてしまう。皆さん、お勉強ができるだけではないのだ!


2014年4月27日日曜日

シカゴと私

土曜の午前9時過ぎにリッチモンド(バークレーの隣町)を出発し、月曜の午後3時ころシカゴに到着。列車を降りた瞬間から寒い!まるで冷凍庫の中にいるかのように空気が冷たい。線路や道路のあちこちに雪が残っている。

規模が大きくて迷子になりそうなシカゴ駅を出て、まずはホテルへ。私たちが泊まったのはWyndham Grand Chicago Riverfront Hotel。ここは部屋の内装がきれいでとても良かった。荷物を置いて、さっそく街を散策開始!

しかし、久しぶりに都会に出てきた私には面食らうことばかり。歩行者は横断歩道の信号がまだ赤のうちに歩き出し、車は歩行中の人がいても横断歩道に突っ込んでくる。こんな寒い地域でホームレス生活をしている人たちは悲惨で、コートを着ている人は恵まれている方で、シーツをかぶって震え続けている人もいたし、寒さのあまり動けなくなっている人もいた。悲しいことに、私が見た限りではホームレスに施しをしている人は一人もいなかったし、ホームレスの中でも体力の残っている人は道行く人に声をかけるものの、ことごとく無視されていた。目が見えない人が他の歩行者にぶつかってしまっても、助けてあげる人はいなかった。「アメリカ=弱者にやさしい国」という自分の思い込みが崩れた瞬間だった。

バークレーやホノルルのホームレスにはどこか余裕が感じられる(ここでは、気候のために生命を脅かされることがない、という意味で)のに、シカゴのホームレスは本当に切実だった。とても見ていられなくて、シカゴに滞在していた2日間は自分たちが食べきれなかった食事をホームレスにあげる、と決めて実際に何人かのホームレスにあげた。

シカゴに着いた2日目は観光にあてることにした。夫の強い希望により、アウトサイダー・アート専門の美術館、Intuitへ。メインで展示されていたのはHenry Dargerの部屋だった。

次に足を運んだのはLincoln Park。ここにある公立の動物園がお目当てでやってきた。…ところが、行けども行けども動物がいない。目に入るのは「気候のため、本日は室内にいます」という看板ばかり。前日の夜に雪が降っており、地元民に言わせると「今日はめちゃくちゃ寒い!」ので仕方がないか。動物も人もいない寂しい動物園を歩いていると、植物園があったのでとりあえず温室に入ってみると、中にはたくさんの人がいるじゃないか!みんな暖を求めて来ていたのだ。



意を決して再び外に出て、懲りずに動物園をみてまわる。結局、屋外展示されていたのはライオンとカバだけで、あとの動物は室内展示だった。といっても半分くらいの動物は室内展示すらされていなくて、全く姿を見ることができなかった。ホッキョクグマも奥に引っ込んでしまう寒さ。







この旅はシカゴで何かするというよりも寝台列車に乗ることがメインだったので、シカゴで過ごしたのはたったの2日。翌日にはオヘア空港からVirgin Americaでサンフランシスコ空港へ帰る。

子連れのフライトは慣れたものよ、ベイビー用だと言えば飲み物は何でも機内に持ち込みできるもん、と思っていたら、水を入れていた哺乳瓶と離乳食を入れていたタッパーを没収される。「次から気をつけようね」的温情措置はなく、ホノルル空港で甘やかされた私は相当へこんだ。そうか、そうだよね、液体物は機内に持ち込んじゃダメって、常識だもんね…。

サンフランシスコ空港に着いて、BARTに乗っているあいだ咳き込んでいたら、のど飴をくれたおじさんがいた。BARTの改札口でベビーカーがつかえていたら、電話中だったにも関わらず手伝ってくれた男性がいた。この暖かさ!私の心の故郷はやっぱりバークレーだよ!